京都レポ 二日目

京都は道路が分かりやすいです。
緯度的な横ラインが、一条通、二条通、三条通…七条通…。
経度的な縦ラインが、大宮通、堀川通、油小路通…とそれぞれ名前が付いていて、ほぼ碁盤の目状で交差しています。
なので例えば「四条大宮」という駅は、四条通と大宮通の交点にある駅なんだなと、素人の私でもすぐわかる。
初めての場所でも、「二条○○」とかだったら、おおー昨日行ったあの場所をずっと東にきたとこなんだーというふうに実感しやすくて楽しいです。

これはバスに乗るときに重宝しました。
初めての場所でバスなんて恐ろしくて乗れませんが、京都に限っては、「東山通経由」みたいに書かれていれば、だいたい通るラインがわかる。
バス停も、「五条堀川」とか、そのまんまじゃねーか!ってバス停が多いのでホント助かります。
ある意味観光客に優しいです。

そして市バスでは一日乗り放題カードが500円で売ってます。
一回乗れば基本220円なので、往復+1回で元とれます。
ということに気づいたのは3日目からでしたが。

二日目。
初めて恐る恐るバスを利用してみました。
今日は壬生を中心に見て回る予定。
「(1) 壬生、島原巡り」を使います。
どんより曇り空の中、朝8時半に出発。
ホテル出たとたんに小雨がぱらついてきた。
とりあえず駅に行き、バスに乗って四条大宮へ。
バス停に降りると、小雨とは言えない雨が降っていて、やむなく折りたたみ傘購入。

冷たい雨がしとしと降る中、山南さんが眠る光縁時へ。


光縁寺★★★★☆
浄土宗、知恩院の末寺。
近くに新選組の馬小屋があり、隊士達が往来していた。
当時の住職良誉上人は山南敬介と同じ年で親交があったといわれる。
その関係で多くの隊士達が弔われ埋葬されるようになり、山南自身もここに眠る。(案内書より要約)

9時開門で9時10分に到着してしまい、私の他誰一人いませんでした。
事前に調べたところによると、「観光はお断り。お参りの方のみどうぞ」とのことだったんですが、たしかにその張り紙があり、緊張しながら中に入りました。
無人の受付にはお線香もあったので、それも頂きたい…でもどこ置くの?火は?とまごまごしていると中から女性が出てこられました。
上記のような考えをお持ちのお寺のため、かなりドキリとしたんですが、優しくお線香の付け方からお墓の場所まで教えて下さいました。
(専用のね…炭があったんですよ…そんなので火がつくなんて…世間知らずですみません)

新選組のお墓は、お寺の裏手に回った先の、最も奥に3つ並んであり、合同の墓になってます。
最奥の三つ目が山南敬介の墓。
野口健司、河合耆三郎、谷三十郎、また伊東や藤堂等油小路の変で亡くなったメンバー含め27人が眠っています。(油小路の変組は、後に戒光寺にひきとられたそうです…)
そしてそのさらに奥にあるのが、「沖田氏縁者の墓」。
戒名は「眞明院照誉貞相大姉」。
沖田さんの戒名である「賢光院仁誉明道居士」と似ていることから、沖田さんの恋人若しくは妻的存在だったのではないかと言われているそうです。

とにかくお線香をあげ、きちんとお参りしてきました。
雨が降り続け、お線香消えないか心配だったんですが…。
ここに眠るのは、新選組を強くするために、志半ばで道を閉じられてしまった人ばかり。
とても神妙な心持ちでお寺をあとにしました…写真を撮るどころではありませんでした。


そのまま綾小路通を直進。
当時新選組隊士がしょっちゅう往来していたという路を堪能しつつ…


旧前川邸★★★☆☆
新選組が京にやってきてから西本願寺に移るまでの二年間、屯所として使用。
前川本家は掛屋として公職につき役人の人望厚かったことから浪士組の世話を任され、分家を宿所として提供した。
京の町はずれにありながら二条城(将軍がいるとこ)に近いことが理由と考えられる。
住人は全員本家へ避難し、新選組が好きに使っていた。
攘夷浪士の襲撃に備え要塞化していくなどしたが、出て行くときは迷惑料10両しか置いていかなかった。

という、散々な目にあった前川邸。
土方さんが古高俊太郎を拷問した蔵、山南さんが切腹した部屋など、今も残っているようです。
内部は非公開と聞いてたんですが、土日祝日は一部公開されているらしい。(蔵なんかはダメそうでした)
今は前川さんは住んでおらず、製作所が入っています。

この日は置いてあるパンフだけいただいて、外から眺めるのみ。
大きな立派なお屋敷ですが、やはり普通に「民家」というかんじで、想像してた警備立ち並ぶ武家屋敷という風ではありませんでした。
しかしその分、初期新選組が等身大に、身近に感じられ、この場所に、実際に、土方さんたち新選組がいて、この門を出たり入ったりしたのか…あの方角のあそこで土方さんはあんなことこんなこと…と妄想ぐんぐん膨らみました。


旧前川邸に沿って角を左に曲がると、すぐに八木邸が見えてきます。
斜めお向かいさん。

八木邸★★★★★
芹沢グループの宿泊所。
芹沢が粛正された場所。

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写真見るからに…てかんじですが、新選組ウェルカムな雰囲気がほっとします。
朝から光縁寺、前川邸と、結構ぴりぴりした空気で息詰めてたので…(笑)
中ではガイドの方が案内をして下さいます。
具体的に、この場所に芹沢が寝ていて…など実際に示しながら教えて下さって、本気で感激しました。
こ、この場所ですかああ!!!みたいな。

下手くそなりに図を書いたので、少しでも伝わればと思います。
というか図なしで説明したら余計わけわからんことになるorz

八木


上の写真の長屋門をくぐると、すぐ右手が玄関になっており、建物に上がれます。
図の「正面玄関」のところ。
ちなみに新選組は会津藩御預かりとなり新選組の名前をいただいた際、この長屋門の右の柱に表札を掲げ、「沖田総司や原田左之助なんかがその前へ立って、がやがや云いながら、しみじみ眺めて喜んでいた(八木為三郎遺談)」そうです。

当時八木家は、祖先は戦国大名朝倉家、家紋も提灯も許された壬生きっての豪農でした。
家の造りも、天井は普通に高いですが、欄干が低い。
これは「刀を振り回せないようにするため」で、刀振り回すの前提wの、武家風に作られてます。
身長156センチの私より15センチほど高かった程度なので、大体170センチくらいだと思います。
私でも頭ぶつけそうに思えて冷や冷やしながら通り、一緒に説明受けてたお兄さんは腰かがめながらでした。
昔の人は身長が低かったとはいえ、身長が高かったといわれる沖田さんなんかは苦労したんじゃないかなw
中庭はしっとりした日本庭園(銀閣寺の庭っぽい)。
芹沢の部屋は床の間のあるお座敷ですが、このお庭がベストポジションで眺められます。

また私たちは正面玄関から入れますが、当時はここは特別の時にしか利用せず、左下の土間から続く戸口を常用していたそうです。
玄関は、お役人とかの偉い人しか使えなかったとのこと。
「正面玄関」と書いてある部分は、ちょっとした控えの間っぽく畳が敷いてあり、天井には魔よけの弓(源平合戦で使ってそうな巨大なやつ)が飾ってあります。

さて、床の間のあるお座敷でガイドの方から説明を受けました。
八木家の成り立ちから新選組との関わり…軽妙な語り口で楽しくお話し頂きました。
が、やはり注目は芹沢鴨暗殺当日の様子。

図と合わせて説明すると、当日夜、角屋で大宴会が催され、ふらふらになって帰ってきた芹沢鴨、平山、、平間。
八木家では、平山の馴染み小栄、平間の馴染みで輪違屋の糸里、そしてお梅が待っています(お梅以外は一緒に帰ってきたのかな)。
八木家についた三人は、奥の床の間のある座敷で飲み直し。
かなりぐでんぐでんになってお開き、眠りにつきます。

その寝ていた場所というのが、最も奥の上座に芹沢、隣にお梅。
ついたてを挟んで平山と小栄、ひとつ手前の部屋に平間と糸里という並び。
八木家の人々は、左奥の部屋で母と子三人で寝ていました。
(奥と手前はふすまを開ければ続き部屋になりますが、左右の部屋は壁で仕切られてるので通り抜けできません。ちなみに肌色部分は板の間の縁側?のつもり)

ここで曲者侵入!とあいなるわけですが。
私の記憶間違いでなかったら、ガイドの方は「中庭から侵入し」とおっしゃったんですよ。
でもいま手持ちの資料本を読んでみると、「玄関から侵入し」と書いてある。
永倉の手記「浪士文久報国記事」にそう書いてあって、「屏風ごと芹沢を突き刺した」とあるそうで。
屏風ごと突き刺すなら確かに玄関方面から侵入しないと難しいと思います。
でもそうすると、一番侵入口に近いところに寝ていたはずの平間と糸里が難を逃れているのが釈然としません。
小栄は偶然トイレにいっていて助かったそうですが、普通に暗殺の通り道に寝てるだけだったら、口封じを兼ねて殺されちゃうと思うんですけど…
平山は首と胴体が離れるほど勢いよく殺されてしまっていたようですし…

それに「浪士文久報国記事」によると、「土方が八木邸を去るときに玄関の障子をあけ、門の扉をあけておいた」らしいんですが、先述のとおり、玄関は普段は使用されていなかったようなんですよね。
この「玄関」が土間横の勝手口のことだったとしたらなおさら、芹沢を標的としてわざわざ二つも三つも部屋を超えて行くような侵入経路を取るだろうか。

寝ている順番は、地位からいっても、その後の惨状を見た八木家の口伝からいっても(床の間の血の量がものすごかったとか(その付近でお梅の首か皮一枚まで切られてる))正しそうなんですけど。
昔の人は上座とか下座とかに厳しかったらしいし。
とするとそのことを暗殺部隊も知っていたと思うんですよね。
芹沢が寝てる部屋、位置までほぼ把握できてたんじゃないかな。

もし私が芹沢暗殺を企て、八木家の造りを良く知っているとしたら、まず戸口から入り、土間を通って中庭に出、縁側で息を整えた後芹沢のところに直接飛び込みます。
まぁ雨戸はどうなってるのかとか、分からない構造も多いんですけど…
ガイドさんの「中庭説」が、私も自然に思えました。

まぁとにかく侵入。(侵入長ぇ!)
先述の通りお梅と平山はあっという間に殺されますが、芹沢はさすがというべきか、一太刀二太刀では死なず、床の間の脇差しを取って反撃します。
青のラインを通って隣室へ逃れますが、運悪く文机が置いてあり、それに躓いて転びます。
そこを刺客にぶすぶすっとやられ、絶命したとのこと。

とはいえ、その部屋には八木家の母と子が眠っており、そこに芹沢が倒れてきてぶすぶす…となったものだから、八木家の人々は大変恐怖したそうです。
そのとき為三郎もケガをおったとのこと。

芹沢が躓いたといわれる文机は当時そのまま残っており、じっくり見ることができました。
これがなければもしかしたら芹沢は助かっていたのかも…。
また、その上の小さな×は、芹沢暗殺時についた刀傷です。
欄干の角についていて、庭側から部屋を向いて右から左に向かって食い込んだ跡がよくわかります。
右利きの人が左角に転がった何かを切ろうと、刀を振り下ろした途中でここに引っかかったら、こういう跡がつくだろうなと容易に想像できて鳥肌立ちました。

以上が芹沢に関連するブツですが、他にも当時からある火鉢など、新選組の人たちも使っただろうゆかりの品がたくさんありました。
まさに歴史の一ページがこの場所で行われていたんだと、実感できる場所でした。
まさかここまで詳しく見せて頂けるとは思ってなかったので、本当に嬉しかったです。
新選組ファンにはオススメの場所です。

ちなみに八木家は今は和菓子屋を経営しており、お店が隣接しています。
八木家入館料には、この和菓子屋さんでのお茶代も含まれていて、お抹茶と壬生にちなんだ和菓子を頂くことができました。
とてもおいしく、また少しでも長く新選組ゆかりの土地にいることができて幸せでした。
(特に用事もないのにぼけーっと座ることってなかなかできないんですよね)


さてお茶で和んだらほぼお隣ご近所の壬生寺へ。


壬生寺★★★☆☆

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左が講堂。その石段で沖田さんがいつも子供達と遊んでいたことは有名。
ここか…としっかりお参りしてきました。
右は境内の様子。
ここで隊士達が訓練をしたりしていたそうです。
西本願寺に屯所が移転した後も、大砲の調練をしにやってきていたとか。
確かにそういうことができるくらい、かなり広い場所でした。
墓地には芹沢一派のお墓があります。
暗殺の黒幕とされる新選組が、芹沢の死後盛大なお葬式を執り行ったとされるところ。
近藤さんの立派な胸像もあったりして…お互いどんな胸中か…w

本来、壬生狂言という独自の狂言が有名なお寺。
独特の太鼓?の音に合わせて無言で演じるというもので、隊士達も観劇したそうです。
いつか見てみたいな…。
阿弥陀堂の地下には資料室もあり、壬生狂言や新選組について展示がしてあります。


新徳禅寺★★☆☆☆
壬生寺のお向かいにある新徳禅寺。
ここは江戸からやってきた浪士達に、清河八郎が「将軍じゃなくて天皇をお守りしようぜ!」という演説を行った場所。
話が違う!と反発した浪士達がのちの新選組である…という、結構重要な節目の場所なんですが、残念ながら現在は内部非公開でした。


とにかくこの旧前川邸、八木邸、壬生寺、新徳禅寺は、とても近いご近所さん。
できたてほやほやの新選組の微笑ましいエピソードが多く残っているのも特徴で、当時の様子が目に浮かぶようでした。
沖田が八木家の子供達と遊ぶとか…地理的にもほんとすぐ裏手で、気軽に行けたんだろうということがわかります。
とても有意義な壬生探索でした。


とはいえ、まだお昼になったばかり。
四条大宮で腹ごしらえしつつ、バスで次の目的地に向かいます。


二条城(世界遺産)★★★★☆
徳川家康が京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として造営し、徳川家光が完成させたもの。

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写真は二の丸御殿(国宝)。
内部は豪華。超豪華。とにかく豪華。
部屋の壁が一面金塗りに巨大な松やら桜やら。
なにあれ教科書で見たことあるよ!
絵画かと思ってけどふすまや壁画だったんだ…。
部屋は沢山あるのにどれも金箔ぴかぴかです。
でもごちゃごちゃせずに「松と鷹だけ」ドーンと描いてあるところが迫力あって素敵。
美術に疎い私でも聞いたことある「狩野派」の傑作だとか。

しかし将軍が普段の生活に使う部屋だけは、渋い山水画でした。
まぁあんなキラキラした部屋で毎日を過ごしたら、脳みそ溶けちゃいそうだよね(笑)
金箔が多く使われるのは、照明器具の発達していない当時、夜はもとより昼も内部までは光が届きにくく暗かったため、少しでも明るく過ごせるようにという理由があるそうです。(ほぼ見栄だとは思うんだけど…w)

大政奉還が行われた場所(大広間一の間)も実際に見ることができ、徳川幕府が閉じられた現場を体感できました。
でもあまり広くはなかったなぁ…。
ご家来衆が座ると思しき場所は特に。
せいぜい20~30人程度しか入らないと思うんですが。
全員入ったわけじゃないのかな。位の高い人だけ集まったとか?

あと有名な「うぐいす張りの廊下」も、きゅっきゅきゅっきゅ堪能してきました。


徳川幕府終焉の地に行ったなら、次はここでしょ!ということで…

京都御苑★★★★☆
平安京の内裏が消失し、再建の間の里内裏の一つだったが、1331年光厳天皇がここで即位されて以来、皇居として定着した。
明治天皇が東京に行かれた際、公家等も付き添って東下したため一時は荒れ果てていたが、後に「京都御苑」として整備され今に至る。

ということで…。
皇居だった「京都御所」は、京都御苑の一区画にあります。
御苑全体は、市民公園風に、唐松が植えられたりして整備され…途中です。
あちこちでクレーンが道を掘り返してました。

御苑自体は自然が多い素敵なところですが…なにしろ広い。
南北2キロ東西1キロの巨大公園。
とりあえず京都御所に行こうとするも、ほんと…遠いから…。
すでに足はパンパンでただ意思の力のみで動かしてるようなものなのに…。
足をひきずるようにしてやっと御所到着。

でも入り口はどこ!?(何しろ御所全体が土壁で覆われている)
手前に門があるのにー!立ち入り禁止ってなーぜー!
あ、あっちの門のところ人がいる。(こっからがまた距離長い)
ひぃひぃやっと着いた。
あれ、あの観光客らしき人も追い返されてるぞ。
もう時間が5時くらいだもんね。やっぱ無理かな。
あれ、追い返してる方はなんかガードマンみたいなんですけど…さすが警備厳重…ってあの腕章…!!

「宮内庁警察」

!!!ひぃぃ!!
なんか…私とんでもないとこに来た?
こんなお気楽に来ていい場所じゃなかったかも…。
恐る恐る「今日はもう無理ですか」とマヌケな質問をしましたら。
「あちらに宮内庁の事務所があるので、そこで申し込みをしてきてください」
なるほど…事前に申し込みがいったのね…。
とりあえず事務所に向かう。
どきどきしながら受付のお姉さんのところに行くと、御所の見学は「身分を証明した上」「当日申し込み不可」とのこと。
なるほど…だよね…いくら「旧」とはいえ、皇居ですものね…!
でもここまで来て手ぶらで帰れるか!と申し込み。
うわぁ宮内庁に免許証のコピー取られた…w
当日不可ってことは、その間に何かを調べてるんじゃないかと思うんですけど…深読みしすぎかな。
ちなみに外国の方は「日本人の同伴者」がいれば「特別経路での申し込み」の後に許可されるそうです。

ここまで厳重に警備されてるなんて、中はいったいどうなっているのか!明日が楽しみです。


さて帰り。
近くの門から出てすぐ電車乗っても良かったんですが、今日はこれで終了ホテル直帰だし、足は痛いの通り越してもう感覚がないので、御苑を縦に2キロ突っ切るくらいはできるかなと思い、自然を満喫しながら南下していってたんですよ。
いくつか途中に門があって、へぇ~と眺めながら歩いてた。ら!
なんか特別な立て札のある門があるではないですか。
なんだなんだと近づくと!


蛤御門★★★☆☆

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ちょ、蛤御門ってあの!?
長州征伐のきっかけとなった禁門の変、中でもっとも戦闘が激しかったとされる場所。
行ってみたいなぁとは思いながらも日程的にちょっと無理かなと、調べることもしなかった蛤御門!
なんとなく行き着いてたよ自分グッジョブ!(ちゃんと調べましょう)

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結構くっきり銃弾の跡が残ってるんですよ。
これは御苑外側からの写真なので、長州藩が打ち込んだものということになります。
激戦が忍ばれます…


以上、ハプニングありつつですが、二日目終了。
ふらふらホテルに帰って再び気絶。
一応サロンパス持ってきてて良かった…ほんと…お前いくつだってかんじです…

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